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若みやマスター(通称 若マス) Profileっていうか生い立ち(笑)


生まれてから義務教育・学生生活まで編

1960年代半ばの夏
江古田北口にある島津産婦人科にて産声をあげる。
体重はかなり重かったようだ。
名前は何かの博士の名前からもらったらしい・・・・。
この頃の家は木造平屋、トイレはボットン、お風呂は木の樽みたいな浴槽?
縁側があり庭があり庭には池があったらしいが、親が目を離したすきに
池の中で金魚達と戯れていたとの事、その後すぐ池は埋められてしまったようだ。

幼稚園は「力行幼稚園」
当時の記憶ではものすごく歩いた気がしていたが今歩くとそれほど遠くもない。
力行幼稚園の歌は覚えていない。
覚えているのは「両手を振って足取り軽く歩いていこう声高く〜♪」
なぜか弟の通っていた「みのり幼稚園」の歌だった・・・・。
選挙の投票所は「みのり幼稚園」なのだが、
投票に行く度に知らずに口ずさんでいる自分がいる。
平屋の家が半分取り壊されそこに二階建ての建物が出来た。
喫茶店「若みや」である。
当時からクリームソーダをよく飲んでいたマセたガキだった。

小学校は「練馬区立開進第三小学校」
弟が出来たのも小学校に入ってからである。
奴はいつもお気に入りのタオルケットを持っているライナスのような赤ん坊だった。
しばらくして何故か引越しである。
「若みや」二階にお風呂が作られ二階の奥の部屋で生活するようになる。
理由は簡単だった・・・・残っていた平屋側を取り壊し三階建ての家が出来る。
屋上からは富士山も見えた。豊島園の花火も見えた。
そのかわり、浅間神社の富士塚からは富士山が見えなくなった・・・・・。
喫茶店は人に貸すようになってしまったため今までみたく毎日クリームソーダを
飲むわけには行かなくなってしまった・・・・・。
近所の少年野球チーム「栄クラブ」に入るが運動があまり得意でない
オイラはベンチでスコアブック書いている事が多かった。
お囃子もやった、最初栄町二部で「秩父囃子」をたたいていたが
栄町三部では「江戸囃子」を始める事になり、元々三部のオイラはトレードされた。
高学年になると一番きびしいとされる先生が担任になった。
ハンカチ2枚とちり紙は必須アイテムで忘れると往復ピンタ(笑)だった。
ある時壁に漢字の羅列された文章・・・・。
「銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母」
読めと言われて次々さされるが誰も読めない。
何人か泣きが入って読み方と意味を教えてもらった。
なる程、先生はどんなに体罰しようと、授業中生徒に肩もみさせようと
子供達はどんなものより大切なんだという事だった。
卒業して何年か経ち、その先生は他の学校で教頭先生になったらしい。
そのさらに数年後・・・・。癌で他界されました。
久しぶりに会う同級生はすべて「あの先生がいたから今日があるみたい」な
人としての基本になる部分を叩き込んでくれたのは、今なら問題になるであろう事を
していた大変きびしい先生だったんだなぁと涙ながらに語りあったもんです。

中学校は「練馬区立開進第三中学校」
中学校に入ると英語という授業がある。
わからなかった、苦手だった、大嫌いだった、拒否していた。
今更思うとちゃんとやっていればよかった・・・・・。
部活は一年の時は「バスケットボール部」
理由は内緒(笑)好きな子がいたからなんだけど・・・・・。二年になったらその子辞めた。
二年になって部活をかえた、今度は「テニス部」
こちらの理由も内緒(笑)次に惚れた子がいたし(笑)、 ヒラヒラしたスコートが身近で見れると思った。しかし練習は男女別々だった上男子はぜんぜん女子に相手にされなかった。
修学旅行で事件は起こった・・・・。
三年になりやはり最終学年は学校一きびしい担任であった。
修学旅行の夜、我々のクラスは勝手気ままに部屋は男女ぐちゃぐちゃ状態
別に何するというわけではなく、ただ話しているだけだったのだが、
担任の見回りでその状況が見付かってしまった。
「おまえら、俺に恥をかかせやがって!」と怒鳴る担任
朝まで全員廊下に正座、帰りの新幹線も正座した上反省文書き・・・・・。

いい思い出です(笑)

高校受験を控え成績が中位のオイラの志望校としては
都立は「光丘高校」か「武蔵丘高校」
私立は「帝京高校」か「城西高校」
担任の推薦で「育英工業高等専門学校」と上がっていた。
結局第一志望を「育英高専」とし試験も発表も早かったので
他は受験せず。つまり一番先に第一志望で合格しちゃった。

話が前後するのですが小学校から中学校に掛けてブームがあった
そのひとつが「スペースインベーダー」である
インベーダーゲームが爆発的にヒットし、
隣の喫茶店に導入されると入り浸って親に怒られた。
今考えると金もないのにクリームソーダを飲みゲームをやりに来る大家の息子は
お店からするとすごい迷惑だっただろう・・・・・・。
ある時本家(練馬区高松)に行った時、いとこの兄ちゃんの部屋にコンピューター
(NEC PC-8001)がありスペーススンベーダーが出来た。
そしてひらめいた、将来はコンピューターを使うゲームのプログラマー
もしくはコンピューターグラフィックスのデザイナーになろうと・・・・・。
そして、もう一つのブームが「スーパーカー」ブームである。
スーパーカーを撮影するのにカメラに触れるようになり
そしてひらめいた、将来はかっこいいスーパーカーをデザインするデザイナー
もしくはカメラマンになろうと・・・・・。
基本的にはソフトな部分よりハードな部分が好きだというのに気が付いたのは
何年も後である・・・・・・・。
エレクトロニクスとかメカニカルという物が好きで家にあるカメラ・ラジオ・時計を
片っ端からバラバラに分解し親にメチャクチャ怒られるという少年時代を過ごした。

高校は「育英工業高等専門学校」
男子校である、五年間である。
グラフィック工学科・・・・。
デザイン・写真・製版・印刷等を勉強する。
部活動は「写真部」
高校に入り、学校で必要だからみんなも持っているしという事で
カメラ(Canon AE-1+P)とコンピューター(NEC PC-8001 MK2)を買ってもらう
金の掛かる学校に行かせた事を親は後悔したかも・・・・・・。
専門教科はそこそこ勉強するも基礎教科がボロボロという成績でこのままでは
留年という事態に陥る・・・・・。
そこで朝授業が始まる前に学生主任の先生の部屋で個人授業となる。
今思うとかなり面倒見のいい学校だった。
っていうか成績落ち方が半端ではなかったらしい(笑)
四年生になるにあたり研究室の選択が出てくる。
さらに一つに絞って専門的に勉強するみたいな・・・・・。
オイラは写真研究室を選んだ。
写真について掘り下げるっていうか、当時部活も生活も写真にどっぷりだったので・・・。
そして、就職を考え始める。
選択としては、現像所・写真館・広告制作製作会社・フィルムメーカー・カメラメーカー・薬品会社等が今までの傾向
写真を撮るのが好きだったオイラとしては、広告制作会社や写真館も考えたが、授業の課題を指示されて撮る写真には違和感があったので仕事でデザイナーやクライアントに指示されて撮るなんてとても出来やしないと断念。
ラボ・フィルムメーカー・カメラメーカー・薬品会社は成績上無理
残るは一つ、写真機材を売る営業。
カメラマンにも接していられるし、すべての最新の機材も触れる。
とメカフェチのオイラには涎物でした。

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江古田の居酒屋 若みや
33-1, Sakae-chou, Nerima-ku, Tokyo, Japan
〒176-0006 東京都練馬区栄町33-1
Tel. 03-3948-8989 (Domestic) +81-3-3948-8989 (Int'l)
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